グッドナイト

「ねえ、」小さな声で呼ぶと、彼は少し眠たげな顔でわたしを見た。「どーしたの」呆れているせいか、それともただ眠いだけなのか判断し兼ねるいつもより鼻にかかった声で彼が問うた。優しく頭を撫でながら。「どうして人の気持ちって変わるんだろう」わたしの唐突な質問に彼は眠気が覚めてきたのか、撫でていた手を止めてひとつ伸びをした。「どうした急に」「わたしが中学3年生のとき、お姉ちゃんが今まで大好きだった林檎を、ある日突然嫌いになったことがあったの」彼はわたしの言葉に相槌を打ちながら話を聞く。一緒の毛布に包まりながら、こうやって話を聞いて貰ってると、幼い頃母がわたしが眠るまで隣にいてくれたことを思い出す。そんな穏やかな時間。「お姉ちゃんにも林檎を嫌いになる理由があったんじゃないの」「うん、わたしもそう思って聞いてみたんだ。そしたら理由はないっていうの。ただ、嫌いになっただけ、って…」語尾がどんどん小さくなって、みるみるうちに泣きだしそうになってしまうわたしに気付き、彼は再び頭を撫で始め、終いにはぎゅっとわたしを抱きしめた。

「ときどき怖くなるの」「なにが」「お姉ちゃんが林檎を嫌いになったように、わたしのこともある日突然嫌いになるんじゃないかって」「俺が?」ちょっとためらったように頷いたわたしを更に強く抱きしめ、「俺永遠は信じない。けど、永遠に続いてくれたらいいなっておもう気持ちはあるよ」、そう言ってわたしの頬に軽く触れた。わたしはそっと目を閉じて、夢を見ているかのように「ずっと続けばいいのに」と言った。そのあとの返事はなくて、ただ彼の寝息だけが聞こえてきたので目を開けて確認するとすうすうと寝息を立てる子どものような彼がいた。わたしはふふっと笑って、二人の永遠をまるで願うようにそっと目を閉じた。

RAIN DROPS

突然降り出した雨、最悪の結末。天気予報なんてチェックしていないから、今日雨が降ることなんて知らなかった。さっきまで晴れていたのに、突然大粒の雨がポツリポツリと降り出し、街行く人は雨宿りしたり、コンビニで傘を買ったり雨を逃れるために必死だ。わたしは傘も差さず街を歩いていた。いっそのこと、この雨が全てを洗い流してくれたらいいのに。雨が神様の涙なら、泣きたいのはこっちの方だ。先程振り解いた手の感触が、まだ残っている。ぎゅっと掴まれたとき、あまりの力の強さに驚いた。年下だからいつまでも子どもだと思っていたのに、いつの間にか自分なんかよりもずっとずっと力が強くなっていて、その事実に戸惑った。そんな力強い手を振り解いたのは意地で、引き止めてくれたことがすごく嬉しかったのに、泣き出しそうな顔を見られたくなくてその場から逃げだした。

雨でお気に入りのワンピースや靴が濡れてしまうことなんて、もうどうでも良かった。雨と涙でぐちゃぐちゃになった顔を覆い隠すようにしゃがみこむ。びしょ濡れの自分が情けなくて更に涙が出る。彼と出会った日のことをふと思い出した。そういえば、あの日もこんな土砂降りの雨だった。突然の雨にどうしようか困って空を見上げているわたしに「せんせー、良かったらこれ使って下さい」とそっと傘を差しだした。1本しかない傘を借りて、塾の生徒に風邪でも引かせてしまったら困ると思い断ると「…じゃあ、駅まで一緒に入っていきませんか?」と恥ずかしそうに笑った彼を今でも鮮明に思い出せる。彼の照れ笑いが好きだ。年上のわたしをリードしようとして失敗したときやちょっと背伸びをしたときに見せる表情。こんな最悪な状況なのに、彼の大好きところばかり浮かんでくる。ねえ、だったらどうしてあのとき、掴んでくれた手を振り解いてしまったのだろう。後悔しか浮かんでこない。


そのとき、わたしの身体を打ち続けていた雨の気配がふと消えた。雨が止んだんじゃない。ゆっくり視線を上に向けると彼が傘を差して、そこに立っていた。「お前、ずぶ濡れ」と呆れた声を出した。ふう、とため息をつき、しゃがみ込んだままのわたしの目線に合わせて彼もしゃがむ。傘も差さずにいたわたしの髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でて「いい加減仲直り、しよ?」と優しく微笑んだ。それを見たら今にも泣き出してしまいそうで、声にならない声で「うん」と頷いたわたしを見て「これじゃどっちが年下か分からんよなあ」と年下の彼は軽口を叩いた。生意気な言葉と裏腹にわたしの手をさらった彼の手は優しくて温かかった。

さよならのカウントダウン

どうして楽しい時間は過ぎるのがこんなに早いんだろう、そんなことをぼんやり考えていた。苦しくてつらい時間はあんなに長く感じるのに。好きな人と過ごす時間は、まるで一瞬の魔法のように過ぎて行ってしまう。今こうして繋いでる手も、あと少ししたら解かなければならない。デートの後、彼はどんなに遅くなっても家まで送ってくれる。いつも家の前の公園でさよならをするのがわたしたちの決まりだった。この道の角を曲がれば公園が見えてくる。そこを通る度、まるでさよならのカウントダウンをしているような気持ちになって、より一層寂しさが襲う。

公園が見えてきたところで、いつものように気を使って「ここでいいよ」と手を解こうとした。それでも彼は強く握ったまま手を離してくれない。戸惑って彼の方を見ると「ごめん」、と小さく謝ってから言葉を繋いだ。「手離したらさ、さよならせなあかんくなるから嫌や」、そう言って繋いだ手に視線を落とした。さよならのカウントダウンを感じていたのはわたしだけじゃなかった。上手く言えない言葉の代わりに、彼の手を強く握る。永遠に続いて欲しいと願うこの時間は、この手を解いたら終わってしまう。それならばどうかあともう少しだけ。「―――なあ、ちょっとだけ遠回りして帰らん?」、彼がふわっと笑った。「うん」、そう頷いて空を見上げると、夕焼けの紅はいつの間にか宵の藍に変わっていた。

欲張り

どうしてひとは欲張りになってしまうんだろう、と最近思う。何に対して、と聞かれるとじゃにーずのことで本当に残念なんだけど。欲張りになり過ぎているじぶんが時々嫌になる。公演回数が好きの程度に比例してるわけではないのに。この欲張りが、わたしのいまの状況を悪化させていて、リアルとヲタクを天秤にかけなければいけない葛藤を生み出してる。考えてみれば、別にヲタク活動をすっぱりあきらめる必要なんてない。土日に毎回何か研修会があるわけではないし、無理に欲張らなかったらヲタクなんて容易に続けられる。でも、一瞬でも見逃したくない、と思う気持ちがわたしを突き動かしてる。同時に、わたしが知らない望くんが増えるのが嫌だったりもする。厨ですか厨ですね。入所してからの数年を見て来れなかったことを悔んでいるから、きっとこんなにいまを守りたいし手に入れたいんだと思う。過去になってしまったら、取り戻すことなんてできないから。

嫉妬なんて感情とじぶんは無関係だとおもってたけどそうではないってことに気付きました。たぶん、これも欲張りになってるせい。いまのわたしってほんと心に余裕がない。でもきっとこのもやもやと苦しい気持ちを救ってくれるのも望くんなんだろうなあ。なんて。この夏はわたしにとって正念場。じぶんと向き合う季節になりそう。

レースカーテンの向こう側

ベランダに出る大きな窓の側にちょこんと座って見向きもしないわたしを気遣うように「ココアでも飲む?」と彼は言った。わたしは、わざと不機嫌そうな表情で「要らない」と言葉を投げ捨てた。ふう、と溜息をついた音が聞こえた。レースカーテンの向こう側には、青々とした空が広がっている。レースカーテン越しの世界。穏やかな午後になるはずだったが、彼のちょっとした一言にわたしはカチンと来てしまって、そこからは冷戦状態。本当に大したことのない、ちっぽけなことがきっかけ。「なんでそんな怒ってるの」と呆れた声で、ついに理由を聞いてきた彼に、わたしはどんな言葉で返したらいいか分からないでいた。「だって」、そんな子どもみたいなわたしの言い草に自分自身の方が呆れてしまう。彼の言い方が癪に触ったとか、そんなのは表面上の理由。ほんとうは、ただ単に構って欲しかった。
4週間ぶりに会ったのに、わたしに背を向けてパソコンをいじったり、いつだって読める小説を読み耽ったり、わたしのいない自分だけの世界に入り込む彼に腹が立った、ただそれだけ。だからこんなふうに、子どもみたいに頬を膨らました。会えない時間のつらさを、彼はどれくらい感じたのだろうか。わたしは、彼の感じる何倍も何十倍も寂しかった。会えるだけでしあわせだ、と思えていたあの頃の自分は、どれだけ純粋だったんだろうと思う。手が届かなくても、そこにいてくれたらいいと思っていた。手が届くようになってからはもっと触れたい、もっと一緒に時間を過ごしたいと欲が出てきて、そんな自分に嫌気が差す。ここにいてくれることが、何よりのしあわせなはずなのに。
彼が何か思いつたように、パタンと分厚い小説を閉じた。何だかとても難しそうな本。「ねえ、散歩にでもいこっか。手、繋いでさ」―――そうか、どうやらわたしの不満は丸分かりらしい。「…ずるい、そーゆーの」、つい本音が出てしまう。「ずるいかなあ。嬉しいくせに」とわたしの髪の毛を長い指を使って梳いた。意地悪な言葉と裏腹に髪を梳く指はあまりに穏やかで優しい。わたしは胸がいっぱいでそれ以上何も言えず、レースカーテンに視線を落とした。